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月刊なび168号より 補償は良いが、罰則はダメ
 投稿日時: 2021/01/29
 大阪にも二度目の緊急事態宣言が発出されそうだ、コロナ特措法(以下、特措法)の改正法案も上程されそうだという時節に、この拙文を書いている。現時点での特措法改正についての野党要望は、①罰則には反対、②事業規模に応じた補償を全額国負担で、③感染者差別対策を明記する、④地域ごとに緊急事態宣言を発出できるようにする、だ。情報が錯綜して心配したが、これなら賛成だ。それにしても、なぜ「罰則」が問題になっているのか。
 緊急事態宣言とは、国民の生命が広範囲で脅かされている状態を政府が認めるということ。昨年改正された「コロナ特措法」は、緊急事態下の人権の制限事項を列記して、国民の協力を求めた。しかし、人権を制限しながら補償がないのでは、制限された人権は回復されない。そこで、特措法をさらに改正して、法による補償を明文化することになった。ボクはそう理解していた。
 一九七九年に日本も批准した国際人権規約第4条は、いついかなる時にも人権は制限されないが、人権の最大値の生命が危機に陥っている「緊急事態」の存在を国が宣言した時には、一時的・限定的に他の人権を制限してもよいと規定している。ちゃんと理解すれば、制限された人権は最大限回復されなければならないということになる。だから、特措法改正で「人権回復補償」を明記することは当然な措置で良いことだ。
 ところが、政府は補償と「罰則」をセットにすると言いだし、刑事罰は無理だから行政処分を課すとの立場らしい。一体どうしたんだろう? 緊急事態宣言を発して、国民の生命を守るために皆で行動しよう、営業の自由、働く権利が著しく制限される人々の人権回復補償も負担し合おう、そう決めるんじゃなかったのか。人権は人間の生来に起因するもので、営業や労働の自粛は、たとえ政府に要請されようとあくまで「自発」であり、強制できるものではない。一時的にせよ他人の人権の制限を許容してもらうにはその他人の同意が必要、つまり自発ということだ。営業や労働で生きていく自由と権利は何人たりとも侵すことはできない。一方、ヘイトや差別煽動に罰則があってよいのは「差別する自由はない」からだ。それは言論、表現の自由を侵すことにはならない。「差別する自由はないが、働く自由はある」、そこはまったく違う。だから、緊急事態宣言で時短や自粛を求める以上、可能な限りの補償を法律で定める、それが政治の役割で、罰則は自由や人権の侵害でしかない。
 ここまで、政府のコロナ対応はずいぶん批判されてきた。自治体の長も上げたり下げたりされてきた。だから、ここで「失地回復」のつもりなんだろうか。俄然権力的になって、国民の私権、人権を左右できるかのような錯覚に陥っているかのようだ。補償するのも罰するのも政治だとでも思っているのか。橋下徹さんはよく、国会議員は緊急事態になっても高い給料が保障されているから、国民の犠牲がまったく実感できないのだ、とちょっと過激な物言いをされるが、案外と的を射ている。ともかく、補償を定めることは画期的であるが、罰則の規定は、まったく正反対に歴史に汚点を残すことになる。

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