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月刊なび15号より 「限界町会」の優しい町会長さん
 投稿日時: 2008/03/01
 ボクのまちには、実に表現力豊かな人が多い。「歯医者に行くように精神科に通えたらいいのになぁ」、「これからの福祉は、やってあげる、やってもらうではなく、やっていこうだ」等、ボクはこうしたまちの人のつぶやきをパクって生きてきた。また、先頃、こんな話を聞いた。「うちの町会、いま新年度の班長決められずに難儀してますねん、うちは75世帯で、70人が70歳以上になってしもうて、これ『限界町会』ですねん」。なんと、「限界集落」ならぬ「限界町会」、豊かな表現力だ。ボクのまち、西成という密集市街地の、厳しくも、心温まる現実を見事に言い当てているではないか。気づいてくれてるだろうか、それでも班長を決めようと奔走するこの町会長の温かさを。
 その町会が属する小学校区は、すでに、1年生から6年生まで、すべて1学年1クラスで、25人から28人、1学年複数クラスなんてとても望めない。この10年で20%も減っている。これ、もう「限界小学校」?ボクは、ロンドンのテムズ川南岸のコイン・ストリートのまちづくりを訪ねた話をナビに書いた。まちづくりに立ち上がったのは、大都会なのに小学校が廃校になってしまうという危機感からだった。ボクのまちは、いま、そうなっている。
 この「限界町会」は、住宅改良事業指定地区なんだが、地権者の意向が合わないまま5年が経ち、ますます老朽化する賃貸住宅に、高齢者が「囚われ」ている。密集市街地特有の「難問」だ。日々、急で、朽ちかけた階段を命がけで上り下りしながら救出を待っている人がいる。ボクは、優しい町会長の「限界町会」というつぶやきを聞いて、諦めてはいけないと反省した。世の中に解けない「難問」などないはずだと自分に言い聞かせた。
<<なび15号より>>

月刊なび13号より 夕日が美しかった、あの頃に還ろう
 投稿日時: 2008/02/01
 エル・チャレンジと済生会病院が、『知的障害者の雇用への道』というビデオを制作した。障害者と病院の職員さん、支援のスタッフが、病院の現場で交わす軽妙な会話が楽しく、「働くっていいなぁ」と、つい言葉が漏れそうな作品になった。
 ボクは、このビデオと映画『三丁目の夕日』が重なって、いろいろ考えた。ろくちゃんは、大きな会社と早合点して、鈴木オートという町工場のおじさんは、履歴書の「自転車修理経験有」を自動車と読み間違えて、二人は社長と従業員の関係になった。でも、ろくちゃんは、社長の家族や地域の人情に包まれて成長していく。「職縁」とでも表すべきか、生計を建てるだけではない、「働く」ことの価値、人を育てることの「心地よさ」が、夕日の美しさをバックに描かれた秀逸の作品だった。
 あの頃、焼土のまちで、日本人は、もう空襲のないまちに、いっぱいの「こんなんあったらいいなぁ」を夢見て、汗を流した。もう赤紙の心配もしないで、働く縁(えにし)を紡いだ。いろんな仕事が生まれた。みんなで働いた。ろくちゃんのようなひよっこが、夕日のようにまぶしかった。人びとは、それを平和の証(あかし)として愛おしんだ。
 行く年、ボクたちは「就労支援会社」創りを始めた。人生の迷子になった若者は「働くっていいなぁ」を、地域の人は「こんなんあったらいいなぁ」を一緒に探す、そういう夢のような会社をつくることだ。平和が憲法とともに齢(よわい)を重ね還暦を迎えた行く年に、ボクたちはあの頃に還った。
 来る年、ナイスは、「こんなんあったらいいなぁ」と「働くっていいなぁ」を紡いで「ここに住んでてよかったなぁ」と浸りたい。いい湯加減だ、極楽、極楽。
<<なび13号より>>

月刊なび14号より アナザ・ウェイの『なび』となって
 投稿日時: 2008/02/01
 「逆風の中でいつも淡々と事業に取り組んでおられるところがすごいですね。『なび』楽しく拝読しています。」という遠方からの年賀状を頂いた。お世辞を差し引いても、励ましになった。『なび』も丸一年経て、編集部は紙面一新を検討してくれているから、ボクの「いい湯加減」もこれが最後かも・・・。そんなわけで、編集後記みたいなことを書いてみようと思ってた矢先だった。
 打ち明ければ、ボクは、部落解放運動が満身創痍となった時、守銭奴のように?同盟費というものに執着した。ボクもこの運動に35年参加しているから、それなりの経験を持っている。失礼を承知で言えば、落語や漫談になるような、あるいは今でも思い出してしんみりしてしまうような、人と人の出会い、会話を走馬燈のように思い浮かべることができる。もう何年も前の住宅集会だった・・・狭山事件の全国集会の動員を募ったら、「ワシ、富田林にいてるから直に行く」?・・・てな話が山ほどある。あ、これ、大阪の人にしか通じないかも?
 ボクは、こんな涙と笑いで綴られた「部落問題」を緊急避難さそうと思った。逃避の誹(そし)りを覚悟して。天引きでもないのに、毎月毎月集めてくれる同盟費こそ宝だ。そして、同盟費を値上げも値下げもしないで、同盟費の使い道を転換することで、「共済」と「銀行」を創ろうと奔走した。そうやって、部落問題を次の時代に伝えたいと思った。逆風の中での知恵だった。
 部落問題は、少なくともボクが知っている35年、無数の人々の交わりによって、彩(いろど)られてきた。その断片を抜き取り彩色することは詮(せん)無いことだ。ボクは、無数の、絶えることのないその交わりを、紡(つむ)ぎ続けることだと思った。行政も運動も脇役がいいと思った。それを「いい加減」がいいと表現し、運動の行く末を、地域に「溶けていく」ことだと、『なび』創刊号で書いた。ちょっと自虐的かもしれないが、他に言葉が見つからなかった。
 それからの一年のあゆみを「淡々」と言い表してくれた人がいて、〆(しめ)が見つかった。「理論」に導かれた「マイ・ウェイ」ではなく、人と人が綴(つづ)り続ける「アナザ・ウェイ(きっと、道はある)」を、『なび』に誘(いざな)われて、淡々と歩いて行こう。
<<なび14号より>>

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