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ガラシャ

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なにわ筋と鶴見橋商店街の結節点

ガラシャ

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月刊なび12号より 優しく諭された・・・そんな市長選挙だった。
 投稿日時: 2007/12/01
大阪市長選挙は、平松邦夫さんの圧勝だった。巷(ちまた)では、自公対民主の大阪秋の陣を民主が制したと評する向きもあるが、ボクはそう思わない。平松さんの立候補が伝わってから、この選挙、「民意」という風が御堂筋を吹く抜けた、そんな感じだった。「素人に何ができると言われるが、プロが何をしてきたと言うんですか?」「大阪はいつからこんなに元気がなくなったんでしょう」。ボクが、西成の焼肉屋さんでの演説会で聞いた平松さんの第一声は、聴衆の満面の笑顔で迎えられた。何故か諭されているようでもあり、ボクの耳は痛かった。だから、ボクは、この選挙は、「民意をつくる」のではなく、「民意と伴走する」というイメージだと直感した。「小沢ショック」もどこ吹く風だとは思ったが、かえって追い風にさえなっていったから皮肉だった。ボクのまちの鶴中では大阪市内では珍しい学校給食があるが、関市長は「特別扱いはしない」と廃止を宣言して、梯子をはずされたボクたちは当惑した。ところが、平松さんは、「すべての中学校で給食を」と、何のためらいもなくマニフェストに掲げた。「給食論争」とはまったく別の世界から、論争を「終戦」にした。ボクたちが認められたとは思わなかった。「諭された」と思った。ボクは、これと同じような体験を思い出した。精神障害者の福祉施設建設を巡って幾度か「コンフリクト(抗争)」、すなわち住民どうしの衝突を体験したが、見かねたおじさんが、何気なく「歯医者に行けるように精神科に通えるようになったらなぁ」とつぶやいて、場の空気が変わったのだ。このつぶやきは心に残り、ボクたちの社会運動が少し大人になっていった。平松さんのリーダーシップで、中学校給食問題は、それぞれが少し大人になって、どうやったら実現できるかという次のステージに歩を進める。その過程は、平松新市長の掲げる「知らされるだけではダメ、参加しなきゃ」という「情報公開」のもとで、案外と、この大阪の教育改革の礎になっていくのかもしれない。
ボクは、いい市長に出会ったと思った。いつかこの人と西成の未来を話せたらと思った。そして、焼肉屋さんで感じた「耳の痛さ」を心に刻んだ。
<<なび12号より>>

月刊なび11号より 昔、大阪市は「新たな公」だった。
 投稿日時: 2007/11/01
 去年の10月4日のことだった。ボクは、関大阪市長と解放同盟の各支部長との政策懇談会に出席した。その席上、関市長は、「特別扱いはしない、これが、私の人権行政や福祉行政の基本精神だ」と何度も繰り返した。正直に言ってボクは、「特別扱いはしない」には共鳴した。生活保護が6人に1人、ホームレスが多数暮らす西成区の現状を紹介して、「特別扱い」じゃなくて、「地域の力」を活かす政策を考えられないか、それは、関市長のおじいさんである関一が市長であった戦前の大阪市の社会事業にヒントがあるのではないか、という趣旨の発言をした。 
 関一は、今から約10年の助役を経て、84年前に市長となった。関一は、国家(官)と個人(民)の中間に位置する自治体(当時まだ未成熟だった)に、いわば「新たな公」の役割を感じ取っていたのではないか。だから、志賀志那人や山口正などともに、5人に1人は極貧と言われた大阪市で、公営住宅や職業紹介所、市民館、公営食堂、はては公営質屋まで、創造的な大阪市社会事業を展開した。ボクは、最近、この時代にとても興味がある。
 さて、あれから一年、ボクは、民でも官でもない第三の住宅政策として、ブランコートを建て、借財を背負った。風呂券に続いて、食券食堂を開店して、「生活保護でまちづくり」を実践しようとした。なのに、関市長からは、やれコンプライアンス、やれ市場原理の繰り返しだけで、「特別扱い」に代わる「地域の力」を活かすメッセージは伝わってこなかった。それどころか、まちづくりの住民対話を一方的に破棄した。巷には、生活保護費を年金額に下方修正するという話まで囁かれ始めた。ボクは、失望した。
 そして、また市長選挙がやってきた。ボクは、タイムトンネルに乗って、あの頃の大阪市役所を訪ねてみたい。関一の「第一声」を聞いてみたいと思った。
<<なび11号より>>

月刊なび10号より ボクの「被告」初体験
 投稿日時: 2007/10/01
 ボクは生まれて初めて裁判の原告になり、ついでに被告にもなった。大阪市が人権文化センターでの部落解放同盟支部との賃貸契約を、一方的に破棄したのは違法だという訴訟の原告になり、新聞でも報道されたので、最近知人から問い合わせを受けることがよくある。大阪市も間髪を入れずに、立ち退き命令に従えという訴訟を行ったので、一転被告にもなったわけである。
 先日、大阪地裁での第1回公判で、原告席とも被告席ともわからない席に、15分程座って、いろいろなことを思い浮かべた。もう30年以上も前のことだったか、狭山事件が東京高裁第二小法廷で審理されていた頃、ボクは偶然傍聴券をもらい、その時、初めて石川一雄さんを見た。ボクは23歳ぐらいだったと思うので、法廷にいる人の最年少だったはずだ。ボクは、老練なそうな裁判官に「権力」を感じ、元々身体の小さい石川さんの後ろ姿に胸が詰まった。
 30年を経た大阪地裁、ひょっとするとボクが最年長ではと傍聴席を振り返ると、旧知の先輩がチラホラいて、ちょっと安堵した。でも、正面の裁判官の若さに、ボクは戸惑った。ボクは、毎夕立ち呑み屋の暖簾をくぐるサラリーマンのように、当時の解放会館を訪れるおじさんやおばさんのことを思い浮かべていた。法にもとづいて判決を出したら良い。しかし、あのおじさんやおばさんたち、立ち呑み屋のオッさん風の支部を、辱めてはならないと思った。機会があれば、ボクは、若い「権力」に、そう語りかけたいと思った。
<<なび10号より>>

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