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月刊なび177号より 水俣病は終わっていない
 投稿日時: 2021/11/01
 映画『MINAMATA』を、ボクは、水俣市の文化会館で観た。①水俣病はチッソという企業と政府、自治体による故意及び不作為の社会犯罪であったこと。②患者さんの告発や社会運動なくして1ミリたりとも進まなかったこと。③チッソがメチル水銀を流し始めた1932年から24年後の1956年5月1日に水俣病が公式確認(それまでは奇病と言われていた)され、メチル水銀排出がほぼ止まったとされるのは、なんとそこから12年後の1968年5月、まさに46年間の犯罪だったこと。そして、④公式確認から65年を経た今も未解決であること。これらがジョニーデップという人気俳優の演技と美しい映像を伴って忠実に再現された点で、秀逸な映画だと思った。

 水俣市と県境で接する水俣病患者多発地域の出水市に、ボクは、1952年に生まれた。だから、子どもの頃からの実体験がいくつかある。小学校のクラスにいた胎児性患者の彼はとても小さかった。ボクの母方にいた胎児性患者の彼女が「座敷牢」に繋がれていたのを見てたまげた記憶もある。亡父はチッソの構内下請けの沖仲仕で、患者さんの座り込みをごぼう抜きする業務にも係ったらしく、そのことで両親が言い争いしていたことも記憶している。亡父はチッソで働く「社外工」で、知らずにボクは学校で父の仕事先を「チッソ」と書いて、級友に「社員じゃないはず」と指摘されて、複雑な気持ちになったことも忘れられない。亡父は川本輝夫さん(患者連盟委員長)と同じラインで働いていて、「輝夫は偉い奴だった」と語る一方で、「カネ欲しさのニセ患者もいてる」と吐き捨てもした。最近になっても、「パチンコに入り浸っているのは、多くが患者だ」など根も葉もない流言は数えきれないぐらい聞いてきた。老境にある父母の問わず語りには「水俣病」「部落」「精神病」「失対」「山の上」が登場し、今でも密かに、それでいて人名帳のように「正確」に伝承されてきたことを感じ取らせた。水俣病は公害問題であるが、差別問題でもあったし、いまも終わってない。

 1973年の第一次訴訟は患者家族が全面勝訴し、1995年には見舞金給付で政治決着が企てられた。2004年の関西訴訟では熊本県の責任が認められ、患者申請が急増。2009年に成立した水俣病被害者救済特別措置法が3年で申請を締め切った結果、水俣病の認定患者は2283人、認定棄却は1万7444人、結果待ち1414人、申請総数2万8114人となっている(10月3日付朝日新聞)。いかに長く放置され、多くの人が患者認定されないまま泣き寝入りさせられ、認定までの壁がいかに高いのか、数字とともに振り返りたいものだ。ボクは、亡父が、時にニセ患者と罵倒しても、「いつ自分が発病するか、子どもらが発病しないか、ずっと不安だった」と最後に呟いたことを思い起こす。チッソ構内の前線にいた亡父が96歳まで生きたことこそ、奇跡に近いものだった。ひょっとすると、その子であるボクに症状が出ていないことも奇跡なのかもしれない。「不安」総数とは部落差別と同じで、カウントされる術こそないが、現代に記憶され続けなければならない。映画の最後には、そう言い聞かせるような絶妙なテロップが流れた。

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