第2話 在日コリアン人権意識調査

「西成まちづくり百話」

在日コリアン人権意識調査

財団法人ヒューマンライツ教育財団が「西成区在日コリアン人権意識調査」を実施したのは1997年のことだった。慎和枝さんという25歳の研究者が一年間調査に専念してくれた。調査は、237名の在日コリアン住民が協力し、西成支部は100人以上の調査員を動員し、調査内容も、「定住性」「共生性」「民族教育観」「人権問題意識」「アイデンティ」「社会参加の可能性」にまで及ぶ総合的なものになっている。この調査の動機とねらいを端的に表現する「住宅問題」での調査結果を概説する。

誤解されがちだが、西成の住宅闘争は同対審答申以前(1959年に出城通住宅建設)のことであり、きっかけは、大阪市が「バラック」居住者(約250世帯)を「不法占拠」として、強制的に立ち退かそうとしたことであったから、運動の主体も「浪速・西成住宅要求期成同盟」であった。1957年の12月には、115世帯200人が大阪市役所までデモ行進しているが、当然、そこには在日コリアンの人々も参加した(期成同盟の調査によれば、250世帯中部落出身者は3分の1で、「朝鮮」出身は11%)。最初の住宅は80戸しかなかったから、数年の運動の停滞期を経て、再び住宅闘争が再燃するが、「答申」以降の住宅は同和対策事業で建設された。

そこに運命の悲劇が起こった。「出城通住宅」入居時には、隠然たる朝鮮人差別が、そして「同和住宅」では公然たる「国籍条項」が、在日コリアンの入居を阻んだのである。慎和枝さんは、丁寧な聞き取りで、この事件から30年経てもくすぶる「心の溝」を描き、現在でも価値の高い調査となった。

慎和枝さんは、あの時代、公営住宅には「市営住宅」と「改良住宅」と「同和住宅」の三通りがあったが(同和住宅以外には国籍条項はないが、その時代「市営」にも壁があった)、「心の溝」を残さない打開策に至らなかったのは何故かを分析し、解放運動の「自立支援」を評価しつつ、部落解放運動と在日コリアンの運動が「発展段階」にあったと冷静に評した。-wさん(支部の人?)がな、「うちの袖の下でほうかむりして、騙して(住宅)入ろう」って言ったけどな、私は、「騙してまで入らんと言い返したんや」-という当時のバラック居住の在日コリアンの証言には、鬼気迫るものがある。

慎和枝さんは、後書きでこう書いている。「在日である私を見て、『根無し草』と呼ぶ人がいます。故郷のない中途半端な人間だと、私は何度も馬鹿にされ、その度に寂しい思いをしました・・・西成と出会わずに米国に渡っていれば、きっと私は本当の『根無し草』になっていたかもしれません・・・言い尽くせないほどの沢山の人々の優しさは、私の心に逞しい根を生やしてくれました」。

資料:西成区在日コリアン人権意識調査報告書

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